ライダーズ ハイ

毎晩 ちょいと海外オークションで 商品を物色しておりました

来年の為に キャンプ道具を整理している

黄色いGS乗りのSさんの流儀を見習い

すべての道具はパニアケース内に収める計画を遂行中

 

皆さんもご承知の通り

コンパクト=高価 という図式があるので

手持ちの用品を選別し 購入の資金にまわそうと考えている

 

まぁ 春までは時間が沢山あるので 急ぎはしない

納得のいく買い方をしようと思う

 

 

 

さて 今読んでいる「旅々オートバイ」 素樹文生:著

この本がとても イイんです

風景など想像できるような文章で センスの良さがうかがえる

この中の「ライダーズハイ」について紹介しようと思う

 

————– 以下 抜粋です ————–

 

■ 高速道路の愉しみ

高速道路よりは国道、国道よりは県道、そして県道よりは、名もないような田舎道をトコトコ走るほうがオートバイの旅には相応しい、と常々思ってはいたが、では高速道路はまるっきり実用一点張りで旅の世界に不必要なものかと言ったら、そうでもない。

ランニング・ハイという言葉がある。
マラソンやジョキングをするランナーは走っている間には、エンドルフィンという神経伝達物質が絶えず脳から放出されていて、それはランナーの疲れや筋肉の痛みをマヒさせる作用があることがわかっている。
エンドルフィンは体内で合成されるホルモンの一種だが、それが全身に回った時の感じはあのヘロインやコデインにも似て、ドーパミンやノルアドレナリンなどのカテコールアミンと一緒くたんにして「脳内麻痺」と呼ばれることも多い。
つまりは、彼らが走ることを度々求めるようになるには、そのエンドルフィンに酔って、そこに快感を感じているからだ、という説が「ランニング・ハイ」である。

それと同じようなことが長距離を高速移動するライダーにも起こりうると気づいて「ライダーズ・ハイ」と名付けたのは山川健一だった。
ライダーズ・ハイは確かにある。ただし、それは高速道路を使わなければ体験することができない。アメリカやオーストラリアのような何百キロも砂漠の広がる真っ直ぐな一本道があれば別だが、とりあえず日本にはそんな道路はないから、当然、高速道路にのみ限定されてしまうというわけだ。

ライダーズ・ハイはオートバイを降りた時に体感できる。
走っている時にはそれがわからない。少なくとも時速100キロ以上のスピードで、距離にして200キロ。だいたい東京から静岡を過ぎたくらいまでの距離をオートバイで休むことなく走り通せば、誰にでもその感覚を味わうことができるはずだ。

それは主に高速のパーキングエリア。
パーキングエリアまであと1キロという看板が見え、左車線に寄り、速度を落とし、ゆったりとした左カーブの側道へとオートバイをすべり込ませてゆく。
ギアを落とし、悲鳴をあげていたエンジンをアイドリングにまで落として駐車スペースを見つける。
サイドスタンドを降ろして車重を傾ける。一度ふかして、そしてエンジンを切る。
ほぼ3時間ぶりに大地を踏みしめる。

ゴーグルを取り、ヘルメットを脱ぐ。指先を摘まんでグラブをひっぺがすように抜き取り、ステアリング・ヘッドの上に重ねて置く。
今まで跨っていたオートバイのシートとフレームの感覚が体に残っている。足は、たぶん力が入らず、ややガニマタになっているはずだ。体が重い。すべてがものうい。通常の人間の住む世界に戻ってきたのだという感覚はにはまだ馴染めない。耳鳴りがして周囲の音がよく聞き取れない。それまで絶えず大音量で風切音を聞かされていたせいだ。

路肩の縁石に無造作に座る。胸ポケットから煙草を取りだして吸う。腰から肩、そして指先まで一体となってこわばり、うまく火がつかないことが多い。一口吸って煙を吐き出し辺りを見回すと、そこでは全てがまるでスローモーションのように見えるだろう。

そしてライダーは知覚する。これがライダーズ・ハイだ。
今、自分のいる世界は、通常の世界だ、と気づく。人が歩き、モノを食べ、語り、空を仰いで息を吸う。それが当然にできる世界へと戻ってきた、という安堵感を伴った驚き。
それまでいた路上は、考えてみれば地獄にも近い。オートバイの高速移動による高揚感がありこそすれ、生身の体で時速100キロの壁を切り裂き続け、そして常に死と隣り合わせだった。ほんの一瞬でもハンドルを切り損ねて車両と接触すれば、あるいは先行者の不用意に落とした積荷に乗り上げれば、即座に時速100キロで流れ続ける路面に叩き付けられ、転がされ、摩擦により服は破れ、皮膚はこそげ落ち、そして車間距離を詰め過ぎた後続車のタイヤの下敷きとなって簡単に死んでしまう。それが非現実ではない世界に自分はいた。

そんな緊張感からすべて解放され、全身が通常の感覚を取り戻すまでの僅かな時間の感覚がライダーズ・ハイなのだ。まず、体温が戻ってくる。血の流れと、その温かささえも指先にまで感じ、肩が落ちる。次に聴覚が復活する。耳鳴りが退き、それはまるで小さく絞ったラジオのボリュームを再び上げるような感覚だ。ソフトクリームを片手に行き交う人々の会話が突然、何のことわりもなく直接頭の中に飛び込んできたりする。裏山で鳴く蝉の声が包み込むように響く。まるで映画館の立体音響のようだ。遥か遠く、建物の中にあるはずの食堂のテレビから高校野球の実況中継が聞こえてきたるすることもある。

それでもまだ体は思うようには動かない。頭の中にふわふわとした綿をギッシリと詰め込まれたみたいで体は石のように思い。体と脳味噌を結ぶ回路がすべて寸断されてしまっているみたいだ。息を吸う。動かない空気というものがこれほどまでに人に優しいのかと驚いて、嬉しくなってしまう。それまでいた世界では、空気は、ただ前に立ちはだかり自分を拒もうとするだけの果てしなく分厚い、壁だった。

ライダーズ・ハイを知覚する時間は、およそ十分足らずだ。あらゆる「ハイ」な気分の終焉と同じく、それは減退し、入れ替わるように「日常」が体を支配し始め、人は自分が、何をすべきか、どこにいるのかを思い出すようになる。トイレに行き、顔を洗う。缶ジュースを買う。もう一本の煙草に火を点けてベンチに腰を降ろし案内でもらったロードマップに目など通しているうちに、いつの間にか「ハイ」な気持ちは抜けている。そこにはただ通常の気だるい心地よさがあるわけだ。
「さて」煙草を消して、路上へ戻ろう。路上は路上でまた、別の種類の高揚感が待っている。「ハイ」な気持ちとは、全く正反対の状況による入れ替わりによってもたらされているのではないか。

——————  以上 抜粋  ——————–

 

この感覚 分かるんだよね~

とりあけソロツーリングの時

数年前にBMW乗りとなった時点から それは、なお加速したようだ

一日900kmだって 疲れずに走れる優秀なマシン

頼りになる相棒だ

もう雪解けが待ち遠しい 今日この頃

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